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プライバシー、というのは私たちが比較的最近に獲得した概念です。生活全体を「公ー私」に分け、その「私」の部分を守る法的な権利をプライバシーと言います。私たちはプライバシーが脅かされることを恐れ、その侵害に対して闘うことを覚えました。ですがこの「公ー私」という二分法そのものが、西洋近代の生み出した「個」を前提とした観念であり、我が国の伝統的な価値観と馴染みづらいのではないかということはなお考える余地があると思います。

「公私混同」というような言葉を当たり前のように使うことからも察せられる通り、生活を「公私」の二極に分類するということについて、もはや私たちは疑うことすらできません。そういうものだと信じ込んでいる。これは西洋近代において、都市の発生とともに労働という概念が誕生し、家族と仕事の関係性が断ち切られたことによって生じたと私は見なしていますが、ここでは深入りしません。とにかく私たちが日々営む生活は「公」の部分と「私」の部分に色分けされ、互いの事柄は相互に不可侵であるということが前提となっている。

元々は私企業に勤めるような人間はその労働時間も「私」であり、政治家のように公に尽くすものが(公僕、という言葉からも分かるように)「公」という時間を有していたのですが、いまや「労働=公」「その他=私」という分類が一般化したように思います。このことの是非はともかくとして、上に述べたように私たちは生活における「公」と「私」が混じり合うことを極端に嫌います。「公」が「私」に、または「私」が「公」に闖入することは当然避けられるべきことである、という観念が強くある。そしてここで私が言いたいのは、そのことによって社会は砂漠化しつつある、ということです。

「公」と「私」が水と油のように混じり合わないものであると信じられることはつまり、「公」のことは「私」に、また「私」のことは「公」に影響を及ぼさないということです。いや、敢えて言うならそう信じられている、ということです。しかし公私の別というのは観念上のものであって、私たちはそれを越境する際に仮面をつけ変えているわけでも、別人格に成り代わっているわけでもありません。つまり私たちの生活時間は、「公」と「私」にきっちりと塗り分けられているのではなく、「公」の部分と「私」の部分が濃淡の度合いを変えながらグラデーションを作り出しているのです。

そうであるから、いくら生活を「公ー私」に分類しようとも、「公」は「私」に、「私」は「公」に闖入し、影響を及ぼします。それら(「公ー私」に塗り分けられた生活)は実は、同じ一つのものであるからです。私たちは「今この人は『公』の時間だろうな」と判断したその人が、思わず「私的な」挙措をした時に人間性を感じます。逆に言えば、完全に「公」に徹している人間を見る時、不安と不快感に襲われます。なぜなら、「公」と「私」が、実は連続する一つのものであることを知っているからです。

想像してください。あなたはどこか買い物に行きます。あなたはその時間を「私」であると考えている。店員さんが駆け寄ってきて、あなたに話しかけます。あなたは「私」である時間に愛想を振りまく必要はないと思い、不愛想な返事をします。そしてそれを当然の権利であると思っています。店員さんはもちろん不愉快になりますが、「公」の時間であるためにそれでも愛想良く対応します。しかし店員さんは「私」の時間に入った途端、あなたの愚痴を言い始めます。「なにあの客。機嫌悪いなら家にいろよ」…。

これが私の想像する、砂漠化です。大地を砂漠に変えるのは容易いことですが、そこを緑化するのは並大抵のことではありません。「公私の別」こそが、大地を砂漠に変える一歩目なのではないでしょうか。私たちは「公私の別」というものを今一度捉えなおさなければならない。その境を曖昧にすることで大地を緑化していかなければならない。

僕は仕事に自分のスマホを使っていまして、この前も仕事中にメールが来たので「お客さんからかしら」と思ってメールを開こうとしたんですけど、件名が「私のおっぱいって小さいですか?写メ貼ったので教えてください」だったんです。おいおい、ちょっと待ってくれと。まぁまず僕はここまで刺激的なお客さんは抱えていませんので、これはお客さんからじゃない。でもなんだか緊急性の高そうな件名じゃないですか。「私のおっぱいが小さいかどうか判断してくれ」と。いやこれね、笑うことは出来ないですよ。仮に僕が「僕のチンチンって小さいですか?写メ貼ったので教えてください」って見ず知らずの(男性とも女性とも分からない)アドレスに送ったとしたら、これは相当追い込まれてる。もうなんていうか、恥も外聞もない、生き死にの淵、そんなところまで追い込まれていると思うんですよ。

だってですよ、オナニーしようとAVを見てて、エクストリームを迎えたその後、男性の理性的思弁能力が最も高まると言われているその時間に付きっぱなしのAVを見て男優さんの巨根に驚き、彼我の実力差を感じて「…俺のチンチンって小さいのかな?」なんて思ったぐらいじゃ、そんなメールは送らない。それぐらいじゃ「俺に近しい人、見知った人だと故意に俺に忖度した結果ないし過剰に俺を貶める結果を通告するかもしれないな。ここは中立性を担保するために赤の他人がいい。それも性別問わずがベストだろうな。これが俺たちのピア・レビューだ」とか訳分かんないことを思い立ってチンポコを写真に収めてメールなんてするはずがない。そんな甘ったれた状況ではその選択肢は浮かんでこない。もっとこう、ヒリつくような瞬間、焦げ付くような今に閉じ込められていないとその選択肢は出てこない。

例えばですけど、仕事の帰り道に黒ずくめの男たちに黒いワゴン車かなんかに引きずり込まれて、僕も相当に抵抗はしたと思うんですけど、ゲリラが使うRPG-7(ロケットランチャー)かなんかをこめかみに押し付けられて、「大人しくしな」って言われる。戦闘ヘリも撃墜するRPG-7ですから、しょうがなく大人しくなった僕はアジトまで連れていかれるわけです。「俺をどこに連れて行くつもりなんだ!」とか内心ドキドキしながら僕も言ってみたりして。リーダー格のやけに男前のやつが「黙ってりゃあ分かるさ。今のうちに念仏唱えときな」とか言って無事には帰れないことを示唆してきたりして。そんでアジトについて、まぁこのアジトには迷彩服のスキンヘッド巨漢(ビッグ・ドム)やら、サバイバルナイフを無駄に舐めてるやつとかがいるわけなんですけども、ボスの部屋に連れていかれる。そこでボスと初めて対面するわけになるんですけど、このボスが金髪の美女なんです。スタイル抜群でボンデージ的な衣装に身を包んで、妖艶な雰囲気を醸し出してる。そこで僕はすかさず「綺麗なお姉さんが俺に何の用だ。俺のRPG-7に用事があるってのかい」ってもう絶対生きて帰れるって信じて疑わないアメリカンヒーロー的なことを言ってのけるわけです。よく言ったぞ、僕。すると隣のリーダー格の男前が「ボスになんて口を…殺りますか、ボス」とか脅してくるわけですけども、さすがにボスは冷静で、僕の前にバタフライナイフかなんかを突きたてながら、「その通りだよ。あんたのチンチンが大きいんだったらあたしとファック&ファックさ。だけど小さかったらビッグ・ドムとオネンネすることになるよ!」って言ってくる。果たして俺のチンチンは大きいんだろうか…?

こんな状況ですよ。こんな状況。赤の他人にでもチンチンの大きさを訪ねなきゃいけなくなるような状況って。そうやって考えると、この「私のおっぱい小さいですか案件」も重要性を帯びてくる。仕事なんかしてる場合じゃない。きっとのっぴきならない事情がこの女子大生(仮)を襲っているに違いない…。


とそんなことを妄想していたんですがね、また違うメールが来ました。「お客さんからかしら」と思ってメールを開こうとしたんですけど、今度は件名が、

【写メあり】セックスオスシ

でした。セックスオスシですよセックスお寿司。なんだよその組み合わせ。どういうことなんだよ!僕の脳内には「女体盛り」とか「駅弁」とか、なんだか関係のありそうなワードが浮かんではたゆたい、たゆたっては消えを繰り返していたんですが、「セックスオスシ」はそのどれとも違う!なんだこの語感!「セックス寿司」じゃないんですよ。「セックス寿司」って、何かは知らないけど、なんかすごく下品というか野卑だ。知性が感じられない。でも「セックスオスシ」には品がある。知がある。雅がある。僕は今凄く、セックスオスシがしたい。それが何かは分からない。でもそれがどんなものであっても、とにかく僕は今すぐにでもセックスオスシがしたい…。セックスオスシにはそう思わせる何かがあるんです。トム・ソーヤーがハックに「オージーズをやろうぜ!」って言って、「オージーズって?」と聞かれて「わかんない。でも海賊は必ずオージーズをやるんだ!」って答えた時みたいに、僕はセックスオースーシがしたいんです。何かは分からないけど、でも絶対楽しい何かなんだ!

裏に糸井重里みたいなコピーライターがついてんじゃないのかって思うセックスオスシなんですけど、僕はもうこのブログのタイトル替えようかと思いましたもんね。「セックスオスシ」に。まあセックスが登場しないので僕のブログのタイトルにするなら「オナニーベントウ」って感じですかね。素晴らしい類語が出来上がりました。Weblioの類語の項目に登録される日もそう遠くない。でもやはり悲しいかな、オリジナルにはかなわない。これね、男性が女性に上から覆いかぶさって挿入して、「これがセックスオスシや~」みたいなのだったらもう許さないぞ僕は。そんな知性のかけらも感じられないものが「セックスオスシ」なわけがない。せいぜい「セックス寿司」どまりでしょうそんなもん。だいたい日本語の文法的にはそれは「寿司セックス」であって「セックス寿司」ではない。つまり「セックスオスシ」というのは「お寿司みたいなセックス」ではなく、「セックスみたいなお寿司」であるはずなんです。セックスみたいなお寿司…?

しかもですよ、【写メあり】と来ましたよ。おいおい、こんなに見たい写メはここ10年は無かったぞ?
LINEのニュースとかでタイトルで釣るクソみたいな記事を、金剛石のような意志力で幾多も無視してきた僕がですよ、これは見たいと思った。見なきゃ死ねないと思った。だけどメールに添付してあるのはこれ以上ないくらい怪しいURLのみ。こんなもんクリックしたらね、どうなるかぐらい僕にもわかります。身に覚えのないエロサイトに登録されまして、何とも腹立たしいことにこのエロサイトには多分セックスオスシの画像はないんですけど、月額3万円とかって名うての社交クラブみたいな月会費を請求されて、なんやかんやあって怖い人から電話がかかってきて…。という流れになるんですよどうせ。

挙句の果てには僕の職場の前に黒塗りのベンツが乗りつけられまして、その中から上下Kappaの赤のジャージかなんかを着たデカいお兄さんが出てきて、そのベンツには仔牛ぐらいもあるなんか今までに何人も嚙み殺してそうな犬みたいなのが乗ってたりするわけなんですが、そのお兄さんが僕の職場に向かって「セックスオスシの請求に来ましたーー!!」とかって大声で叫んだりするわけですよ。近隣の方たちは「…セックス…オスシ??」って何の請求だか最後まで分からないと思うんですけど、とにかく僕が大声では言えない何かをしたってことは知れ渡ってしまうわけです。

そんなベンツが職場の前に乗りつけられちゃ困る。仔牛のベンツはやっぱりよくないってことで、「セックスオスシ」については泣く泣く断念しました。

いつもならここで終わるのですが、それだけで引き下がるのも悔しいですし、そもそも「セックスオスシってなんだ」っていう好奇心が水蒸気爆発を起こしそうなぐらい膨れ上がっているので、ネットの検索窓に「セックスオスシ」と書いてガツンと検索。僕のパソコンもここまで書いてようやく「セックスオスシ」が一発で変換されるようになりました。PCに新たなニューロンを形成していく。それもセックスオスシ。しかしこの検索結果がですね、一人の良民が「セックスオスシってなんじゃい」ってつぶやいている結果にぶち当たっただけなんです。おいおい、嘘だろ。僕とこの一人以外はみんな「ああ、セックスオスシね」と納得したのかよ。「俺も一昨日したぜ、セックスオスシ」「ああ私も。いいよねー」ってな具合なのか。

とりあえずこの日記のタイトルを無駄に意味ありげなものにして終わっておきます。



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ある見方では、私たちが「個」と信じている私たち自身は、遺伝子を運ぶ乗り物でしかありません。西洋近代に産声を上げた個を重視する価値観は、いまや私たちにあまりに深く影を落としていて、そのような見方すら特異に感じられます。

しかし自然界に視野を取ってみると、「個」という観念がいかにあいまいなものであるかが示されます。群体や真社会性といった概念、またミトコンドリアの共生説といったものは、私たちのなかの「個」という観念を揺さぶります。個と種、その両者はどちらがより高い価値を有するものなのか。私たちの社会では、子を生産する能力または意志がない個体にも生存する権利が与えられています。その意味では、個は種の存続を超越した価値を持たされているようにも見えます。しかしその「個は種を超越した価値を持たされている」ということそのものが、種の存続のための方策である、と言えなくもない。

この種の存続、ミクロ的に見れば遺伝という現象は、見えない縦糸となって私たちの生の場面を貫いています。そして私たちがその問題を直視するためには、遺伝という概念を少し拡張する必要があります。

私達が後天的に得た知識や技術といったものは、当然のことながら生物学的に遺伝はしません。それを我が子に伝えるためには、教育を施す必要があります。では頭の良さはどうでしょうか。頭の良さを定義するということが一つの難問ではありますが、それを仮に「発想の柔軟さ」とするならば、生物学的には遺伝しないように思えます。ではなぜ、世界の富は北半球(特に北米大陸)に集中しており、学歴は再生産されるのでしょうか。

遺伝という概念を生物学的範疇に留めることなく、もう少しだけ拡張してみれば、環境は遺伝する、ということが言えるのではないでしょうか。一般的に言って、親が有名大学を出ている場合は子も有名大学を出る傾向が高いことが知られています。これはなにも頭の良さが遺伝したからではありません。学問に対する関心、学歴が生む利益についての知識、良い教育への距離といった環境が遺伝したからです。自らが大学を出ていない親は、大学を出ることの利益を知らないので、それを子に伝えることができません。自らが学問をしていない親は、学問をすることの素晴らしさを知らないので、それを子に伝えることができません。結果、富裕な家庭の子は富裕になり、貧しい家庭の子は貧しくなるという階級固定的な結果が生じます。無論、親が大学を出ていない子にも大学の門は開かれています。試験で合格点さえ取れれば当然入学することができます。これは、それ以前の問題なのです。ブラックアフリカの貧しい村と東京都の世田谷区に同時に男児が生まれたとして、富裕になる可能性は両者に等しく開かれているのでしょうか。

上の現象は「富の再生産」(または「貧困の再生産」)と呼ばれます。ここで遺伝しているものは、富とも言えますし、階級とも言えますし、環境とも言えます。この意味での遺伝は、「社会学的遺伝」と呼ぶことができるでしょう。私たちはそれぞれ、社会学的な遺伝子をもって生まれてきています。もちろん社会学的な遺伝子は生物学的な遺伝子よりも力が弱いので、その発現は統計によって初めて明らかにされることが多いのも事実です。しかし日本という豊かな国に生まれたあなたは、世界的に見れば恵まれた社会学的遺伝子の持ち主であることは疑いようがありません。

そしてその社会学的な遺伝子は、支配ー被支配という関係を作り出します。そして時にそれは、生物学的な遺伝子と複雑に絡み合って階層を固定しにかかります。「シン・ゴジラ」という映画がありました。あの映画の唯一の欠点は「石原さとみがアメリカ大統領を目指している」という設定にあると私は思います。石原さとみは日系三世で、代々政治家の家系に生まれついています。しかしあの国で、はっきりとアジア人顔の日系三世の女性が大統領になることは、今後100年はないでしょう。アメリカにおける46人の歴代大統領のうち、有色人種はバラク・オバマのみ、女性は0人です。あの国の人口構成比との違いを考えれば、生物学的な遺伝子が、社会学的な遺伝子と絡み合って階級を固定しているさまがお分かりになるかと思います。ちなみに、私の言う生物学的な遺伝子の影響は、オリンピック100メートル走の決勝においてアフリカ系の選手が多いこと、社会学的な遺伝子の影響は、水泳選手にアフリカ系の選手が極端に少ないこと、をイメージしていただければ分かりやすいかと思います。

私たちの生は、(広義の)遺伝子による支配を免れることができるのでしょうか。遺伝子による統治(Genetic Reign=ジェネティック・レイン)を脱することは出来るのでしょうか。



そんな遺伝子による統治なんですが、我々男子がこれに痛烈に直面するシーンというのは、他でもない銭湯なんです。銭湯っていうのは文字通り裸になります。その人の地位や身分、収入や功績なんかもはぎ取られて(つまり社会学的遺伝子をはぎ取られて!)、裸一貫の男として足を踏み入れるわけです。

銭湯ではチンポの大きさがものを言います。いや、すべての尺度であると言っても差し支えはない。かのプロタゴラスだって銭湯に行ったことがあれば「チンポは万物の尺度である」って言い換えたはずなんですよ。そのぐらいチンポのサイズがものを言う。

これ女性の方は分からないかもしれませんけどね、やっぱりどんなにハゲ上がったおっさんであったり、ちいちゃくてヨボヨボのおじいちゃんであったとしても、チンコがでかいということは偉いってことなんですよ銭湯においては。ここでよく気の付く女子なんかは「いや、チンコが大きければいいと思ってるのって、男子だけよ?こっちにとっては…」とかいって慰め半分嘘半分みたいなバファリン的発言をしてくれるわけですけども、もうね、ここにおいては行為の際にどうだとかそんな視野はなくなっちゃってるんですよ。デカいものはいい。単純にいい。そんなアメリカ人が車を選ぶ時の基準みたいなもんなんですね。

特にですね、もはや後期高齢者で、あんまり熱い風呂に入ると逝っちまうんじゃねえのって心配になるぐらいの枯れ木のようなおじいちゃんがですね、そりゃあもう立派なチンポを下げてたりするんですね。おいおい、体の5分の1がチンコじゃねーか、みたいな。ちなみに、気のせいかもしれませんが高齢者はポコチンがデカい確率が高いですね。なぜかは知りませんが。体を洗う動作もおぼつかない、みたいなおじいちゃんなんですけど、遼東半島みたいなチンポをぶら下げてる。これには頭が上がりませんね、ほんと。単純に思いますもん。すげえなって。このおじいちゃんなんか、サウナから出てきてしゃがんで冷水を浴びてたりするんですけど、もうしゃがんだ時点でチンポが地面に付いちゃってる。これは凄いですよね。しかも我々若造とはキンタマの位置が全然違って、大地に吸い寄せられるように下がっていってるんです。アメリカンクラッカーみたいに。だからもう、もっさり。一回お茶碗に盛ってみてほしいぐらいですきっとライス大ぐらいはありますよ。自分で踏んだりしないんだろうかって余計な心配までしたくなります。

そんなわけで、銭湯における男性間のヒエラルキーというのは、チンポのサイズで明確に決められるという峻厳な事実があるんです。体格とかではありません。もちろん中には筋肉の鎧をまとって威容を誇る男もいないではありません。僕だってセコセコとジムに行って鍛えている側なのでその気持ちも分からんではないですが、しかしあの場ではそれは虚勢なんですはっきり言って。偉そうに歩いてますけど「ほんとはチンコちっちゃいんですぅ」って内心おびえてる。女子で言うなら、パーティーにばったもんのブランドバッグさげて行った気持ちと言えばいいでしょうか。「えー、そのエルメス可愛いね~」とか言われるんですけど、内心「ううん、これはベトナムのベンタン市場で、うずたかく積まれてるのを3000円で買ったものなの…」って思っているような状況です。

そんな銭湯におけるヒエラルキーなんですけど、始末の悪いことにこれって完全に遺伝によって決まっているもので、逆転の可能性がないんですよ。そりゃ僕だってスクワットをすればするほどチンポが大きくなる、みたいな科学的根拠があるならしますよ、スクワットを。馬鹿みたいに。それこそ「偏差値が1上がればチンポが1ミリ伸びる」とかいう話があったら、世の中の男子は猛烈に勉強すると思いますよ。その熱の前には女子は手も足も出ないでしょうねきっと。それぐらいチンポヒエラルキーは重要で、覆しがたいものなんです。


しかも驚かないでほしいんですけど、このチンポヒエラルキー(どうでもいいけど、なんかミャンマーかどっかの高僧みたいですね。チンポヒ・エラルキー。)っていうものは、銭湯だけでなくそれ以外のシーンにも深甚なる影響を及ぼしているんです。銭湯でそれが強調されるのはあくまで晒されているからであって、もし街中でもチンポを晒すっていう習慣を我々が持ち合わせていたら、もうこの世の男性間の序列は全てチンポサイズが決めることになるでしょうね。

もしそうなったら、サイズと言っても様々な尺度がありますから、人々は派閥をつくって争うことになるでしょうね。レングス党(長さ)、シックネス党(太さ)、タートルヘッド党(亀頭)とかいってサイズの中でも何を重視するかで血で血を洗う抗争が繰り広げられると思います。中にはシックネス党最大派閥直径測定派とか、「ウエイト党から大量離党、体積積分測定党を結党か」とか、その測り方にまでこだわってくるでしょうね。あの連中ときたら。

まあそんなわけで、街中であってもチンコの大きさが価値付ける序列というのは存在します。言い換えれば、チンコが大きいっていうのは逆転の可能性を秘めているってことなんです。女子はどうかは知りませんが、どんなにクズな奴でも「チンコが並外れてデカい」ってことになれば、一定の尊敬を勝ち得ることができるんです。「こいつね、借金まみれで、女にはだらしないし未だに親のスネかじってんだよ。…だけど、南米のカブトムシみたいなチンポ持ってんのよ」ってなると、もうチャラ!借金とか女にだらしないとかスネとか、もう帳消し!お前スゲーな!ってなっちゃうんです。

ですからやっぱり我々男子はチンポを何とかデカくしようとあの手この手を尽くすわけです。それ故にXvideosなんかにはチンポをデカくするための謎めいたサプリ・グッズの類の広告がバンバン貼られていますし、「引っ張り続けたら伸びた」みたいな怪情報について市部では大真面目に議論されていたりするわけです。

僕が中学生の頃なんか、「オナニーをすればするほど巨大化するらしい」みたいな情報が一時流れまして、「それならするほかないじゃないか!」と言わんばかりに僕を含めた周りの連中は励んでいましたもんね。中には「俺ちょっとデカくなったかも…」とか言い出す奴まで出てきまして、「まじかよ!…ほんとだ!すげーな!」とか言ってましたけど、今考えてみればいじくりすぎて腫れていただけなんだと思います。あの時の小野君のチンコ、あかーくなってましたし。

でもそんな情報に振り回されるほど、僕たちの「チンポをデカくしたい」という欲求、つまり「遺伝子による統治から脱したい!」という精神は強いんです。だからこそ、今夜も日本中の中学生はデカくなることを夢見てオナニーに励んでいます。そして、精子の雨を降らせているわけです。それこそまさに、ジェネティック・レイン。完璧だ。


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私達は世界のすべてを見渡すことは出来ません。それは私たちが期待する「すべて」と、私たちに与えられている時間と忍耐に大きな開きがあるからです。

よく雑誌やテレビ番組なんかではその人の言動が切り貼りされているらしいのですが、そんな些末な事柄においてではなく、もっと大きな意味で、世界は編集されているのではないでしょうか。そしてそのことに、私たちはあまりに無自覚なのではないでしょうか。

2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こりました。同年10月7日、アフガニスタン紛争が始まりました。そして2011年5月2日、パキスタンでウサマ・ビンラディンがアメリカ海軍の特殊部隊によって射殺されました。この間の10年、アメリカは正義の旗のもとに多くの作戦を実行してきたことでしょう。しかし、それで犠牲になったアフガニスタン・パキスタンの民間人の数はいったいどのくらいにのぼるのでしょうか。9.11テロでの犠牲者は大きく報道されます。しかし、アメリカの無人爆撃機で犠牲になった人々の数はどれほどなのでしょう。私たちが何気ない日常を生きていくなかで、その同じように何気ないはずの日常を突如奪われた人たちの肉声を、私たちは聞き取れているのでしょうか。

世界は編集されています。それも、ランダムに切り取られているのではありません。事実が意図的に選択されているのです。私たちはそのことを自覚しなくてはなりません。

これはなにもマスコミの報道に限った話ではありません。私たちは日々の生活の中でさえ、情報を取捨選択しています。生の事実の中からある特定の事実を選び、それに価値を与えること。ときに解釈と呼ばれるそれは、自然で必要な営みでもあります。密林に住む動物たちでさえ、蝶の羽音よりもトラの息遣いを優先して聞き分けるはずです。

しかしそれが自然であり必要であるということと、それを意識する必要がないということは別のことです。私たちは時になにがしかの判断を下します。しかしその判断の材料となる事実は、選択された事実でしかありえない。事実のすべてを等価値に見渡すことができない以上、これは当たり前のことです。判断をくだす度に全数調査的に事実をべったりと眺め渡すことは出来ない。それゆえ、事実の標本とでも呼べるものから判断を下すほかはない。私たちが陥ってはならない陥穽は、それが選び取られている事実であるということに無自覚になってしまうことです。

与えられた情報は、意図をもって編集されています。その選択が自らによってなされていない以上は、何らかの意図が働いているものと考えたほうがいい。特にことの成否に関しての判断を下すような時は、その情報が意図的に―時に悪意に近いそれによって―選ばれているということを自覚しなくてはなりません。


AVのサンプルについての話をしています。ずっと。
僕は小さなころから「職業に貴賤はない」と教えられてきましたし、どんなお仕事だって世の中に必要とされている以上等価値だっていまだに思っているんですけれども、AVのサンプル作る職業だけはこの原則に当てはまらないと思うんですよ。あんなに素晴らしい仕事はないという意味で。

もちろん社会的な意味だとかそんな小難しいことは分かりませんし、AVのサンプル作る人だけが貴いなんて言うつもりはありませんけども、とにかくその技巧が人間国宝レベルなんじゃないかって話なんです。そしてそれによって弊害が生じてるって話なんですよ。今日は。


よく分からない方のためにいちから説明してみますね。でもこれって嵐の魅力をいちから説明するのと同じぐらい野暮ですよ。「まずニノは親しみやすい」みたいな誰でも分かってそうな説明ですよ。
ええと、我々健康な男子(時に女子も)は、AVを見ます。これは500%まちがいのないことです。んでオナニーします。これも700%まちがいのないことです。たまに「俺、AVとか見ないんだよね」みたいなことを言ってるやつがいますが、ただの嘘です。そう言って「ステキ(はーと)」とか思わせて女の股を濡らそうっていう安直な作戦です。家では普通の縛りものAVに飽きて「注連縄縛りで二礼二拍手二挿入!彼女の岩戸にずっぽしタヂカラオ!!」みたいな罰当たりなAVで日夜オナニーに励んでますきっと。

で、AVを見るんですけれども、その際に多くの人がサンプルなるものを見るんですね。一昔前であればそんなものなかったので、DVDもしくはVHSのパッケージを見て判断するしかなかったんですが、今はいい世の中になりまして、サンプルというものがあるんです。AVの本編の再生時間というのはだいたい1時間半から2時間ぐらいと相場は決まっています。もちろんなかには4時間とか8時間、ときに16時間とかいうセシル・B・デミルの「十戒」もびっくりなモンスターサイズのAVもあります。これはですね、「○○(女優名)4時間」とか、「お掃除フェラ8時間」とか特定の趣味、趣向に偏ったものが多いわけなんです。「脇の下16時間」とかね。一日の3分の2を女の子の脇の下見ながら過ごそうってんだから頭イっちゃってますよほんと。ただこれはですね、例えば私が偶然所持している「彼女のお姉さんが誘惑してくる8時間詰め合わせ」みたいなものを例えに説明いたしますと、本編が丸々入っているわけではないんですね。1本2時間ぐらいあるAVを1時間ぐらいに編集して8本分詰め込んでいる。これが曲者なんですよ。いいですか、彼女のお姉さんが誘惑してくるわけですけども、それにおいて最も大切なのはファーストコンタクトなんですよどう考えたって誰が考えたって!なのにこの8時間物はですね、無粋も無粋、無風流極まったことにもう始まってるんですね。もう始まってるというか、もうする雰囲気になってるところからスタートするんですよ。いやいや、するか分からない雰囲気のところをするから興奮するのであって、もうするって分かってる雰囲気なんだったら「そういえば出会った時は彼女のお姉さんだったけど、今では単なるセフレ」っていう状況と変わらねーじゃねーか、平たく言うと女優物と変わらねーじゃねーか!何考えてんだこの編集者はバカイモタコ!って発奮しながら、ファーストコンタクト見たさにその単品を探し出して購入ボタンを押している。その時に気付くんです。「なろほど、あれは8時間かけてみるサンプルだったんだ」って。やつらの掌で転がされていると言わざるを得ない。

そのだいたい2時間あるAVなんですが、その見どころを1分とか1分半、長くて3分以内に編集されたものがそのサンプルなんです。そして本日の主題はこれなんです。僕たちはこのサンプルを見て買うか否かを判断するんですね。だから、売る側としても当然力を入れてくる。そして、力を入れすぎている。これもうね、本日の結論を言っちゃいますけど、サンプルが本編を凌駕しちゃってるんですよ。サンプルより良い本編を探すのが難しいぐらいの領域まで踏み込んでしまっている。

僕たちはこのサンプルを見て「もひー!!」とか言いながら購入ボタンを押すわけなんですけれども、このサンプルの出来があまりに良すぎて本編がそこまで面白く感じられないっていうのがこの界隈で問題になっていることなんです。いやそりゃね、サンプルはサンプルであって、その素材の全ては本編から持ってこられてるものです。そのことに間違いはない。だから本編を凌駕するわけねーだろって思ってるそこのあなたは青は藍より取りて藍より青しということの意味が全然分かっていない。

ここでサンプル師の技が炸裂するわけなんですけれども、その技が華麗過ぎて、本編のクオリティが追い付いていっていない。分かりやすく言うなら本編よりサンプルのほうがヌけるって、わけわかんない事態が発生してるんですマジで。これが本当である証拠に、僕なんかは本編の動画を所持しているのにわざわざサイトまで行ってサンプルみてオナニーしたりしてますもんね。まさに世紀末ですよ。

まあ一流レストランとファミリーレストランの味の違いが素人には分からないように、サンプルの精妙さはそこら辺の若造には分からないので、僕みたいに本編を持っているのにわざわざサンプルでヌく、なんならサンプルでヌくために本編を買うっていう方はそう多くはないと思います。けれどサンプルの編集が上手すぎて本編を見てがっかりしたっていう経験は誰にでもあるはずなんです。間違いなく。サンプルを見ていた時のあの期待感、あのテンポ、あの淫靡な感じ…あれはどこへ行ったんだ?みたいな。「こんなイカすシーンがシーンがあるなら買ってみよう!」と思って購入したものの、見るに値するのは本当にその数十秒だけで、あとは無駄なシーンが延々と続く…。なんだよ俺の時間とお金とカウパーを返してくれ、という事態ですね。

なんでそんなことが起こるかといいますと、繰り返しますがサンプル職人の腕が精妙無比だからなんです。そりゃメーカーからしたら売れればいいわけですから、サンプルは魅力的であるほうがいいに決まっている。そしてそんな貪欲なメーカー側の意向に応えるべく、サンプル職人の腕が異常進化してしまったんですね。それで「本編見てる時よりサンプル見てた時のほうが興奮してた」「サンプルのほうが可愛かったぞ!」「サンプルの子を出せ!」「金返せ!!」みたいな事態になってしまっているわけなんです。

だから僕は思うんですけど、3分ぐらいのサンプルを分野別に40本ぐらい入れて1本のAVとして売り出したらいいと思うんですよ。「ギャルものサンプル厳選40本!」とかいって。そしたら絶対ヌけるから絶対買うもの。ただ僕ぐらいになると、そのAVのサンプルでヌくでしょうけどね。ぐふぇふぇふぇ。


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